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世界文化遺産の町・平泉へ (vol.100 )

2011/11/21 ブログ by 安川有里


神奈川県・鎌倉市が世界遺産になるまでの今後の県の施策について調査をするために、今年6月に世界遺産登録が決まった「平泉」を調査&岩手県庁の担当局の方に、その経過を伺いに、17・18日に岩手県に行って来ました。

県でいただいた資料にこう書いてありました。
『戦乱の焦土から立ち上がり、平和への願いとともに築かれた平泉。
人と人、人と自然との共生を願い、新時代を切り開いたその姿は、
震災からの復興へ向かおうとする、私たちの未来につながっています。
時を超え、国を超え、戦乱を乗り越えて。
世界遺産・平泉は、未来を照らす希望の光となります。』

17日、お昼すぎに平泉に到着。

宿泊先に荷物を預け、レンタサイクルで、いざ調査開始!!!
まずは、芭蕉が辿った道へ。
義経臨終の地「高館・義経堂」(世界遺産には入っていません)。

(義経堂)

松尾芭蕉は1689年に平泉を訪れ、この高館に立ち、眼下に広がる風景を眺め、

100年にわたり平泉文化を築き上げた奥州藤原氏の栄華や、この地に散った源義経を思い句を読みました。
『夏草や 兵どもが 夢の跡』

次は、中尊寺。
芭蕉は金色堂で、『五月雨の 降残してや 光堂』の句を詠んでいます。
(中学の時、国語の授業でやりましたね。塾でも沢山の生徒に教えました(*^^*) )
平泉に館を移し、東北地方を治める事になった藤原清衡が一番に望んだ事は、平和な世の中を作る事でした。
たび重なる戦により命を落とした敵味方を含めた全ての人々の霊を弔う為に
中尊寺の建立をはじめました。
清衡は、金色堂をはじめさまざまな堂塔を建てたり、いけを掘って庭園を造営、20年をかけて完成させました。
ゆっくりと時間をかけて、12世紀に思いを馳せてまわってきました。


(月見坂)

(本堂)

(金色堂)

1日目の最後は「無量光院跡」へ行きました。
ここは、三代・藤原秀衡が宇治の平等院鳳凰堂をモデルに造られました。
寺院跡の調査の結果、阿弥陀堂の柱間や翼廊の左右が鳳凰堂より大きいことがわかり、平等院を超えようという意欲が感じられます。


(無量光院跡)

18日は朝から徒歩で宿泊先の旅館のすぐ隣の「観自在王院跡」からスタート。
二代・藤原基衡の妻が建立したと伝えられる寺院跡です。
2棟の阿弥陀堂が臨んで建てられていました。

建物は失われてしまいましたが、「舞鶴池」を中心に浄土庭園の遺跡が修復整備され、境内全体が史跡公園として開放されています。
ジョギングする人、犬の散歩をさせている人、ちょっと羨ましい環境です。


(世界遺産で毎日散歩するワンコ・ここちゃん)

続いては「毛越寺」。
二代・藤原基衡と三代・秀衡が造営しました。
当時の堂宇は全て焼失してしまいましたが、堂宇や庭園の遺跡が良好な状態で残されました。「大泉が池」を中心とした浄土庭園は当時の姿を今に伝えています。


(本堂)

池に水を引き入れる「遣水」も当時のままで、毎年5月には「曲水の宴」が催されます。

紅葉の季節に訪ねることが出来て、よかったと改めて感じる名所でした。

平泉の町並みを楽しみながら、最後は「金鶏山」へ。
中尊寺と毛越寺のほぼ中間に位置し、平泉を守るために雌雄一対の黄金の鶏を埋めたという伝説が残っています。
登り口付近には義経妻子の墓と伝えられる五輪塔があります。

そこから、200メートルで金鶏山頂上に到着。かなりの急勾配でしたが、登って頂上から平泉の町を眺めて、芭蕉の文章を思い起こしました。
『秀衡が跡は田野となりて、金鶏山のみ形をのこす』


(金鶏山へ登る急坂)

(金鶏山頂上)

一人での調査でしたが、地元の方々や旅行者とのふれあいもあり、
平泉を肌で感じて、町を後にしました。


(平泉駅。この電車で一ノ関経由で盛岡へ)

午後は、岩手県庁で教育委員会の方から、
世界遺産候補になってから決定するまでの経緯などを伺って神奈川に戻ってきました。
岩手県庁での調査内容は平泉調査とともに、レポートを作ります。


(岩手県庁)

今回のブログは平泉案内になりました。
神奈川県では、鎌倉市が世界遺産候補になっています。
来年は、イコモスの調査も入ります。
レポートには、平泉・岩手から学んだものも盛り込む予定です。


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